伊香立について

滋賀県は琵琶湖及びそれを取り囲む山々(比叡山・比良山系・伊吹山・鈴鹿山系)を有し、
早くから都が置かれ、古代・中世から交通における重要拠点であったことから日本史上の関わりが極めて強く、
県全土にわたり自然・歴史・文化的資源が豊富に存在します。

歴史溢れる地域として、伊香立もその一つに含まれます。
歴史と文化が紡いだ伊香立をご紹介します。

栄枯盛衰の物語を語り継ぐ山越えの道。
人々の暮らし、のどかな自然の営みが息づく野の道、山辺の道。
時が静かに流れる田園の里は歴史と文化の香るまち。
のどかな田園のそこかしこには、
往時を偲ばせる物語が秘かに息づいています。
歴史と文化の香り感じれる、そんな伊香立に触れてみませんか。

歴史に触れる場所




この地に生まれ、桓武天皇の後宮となった旅子は、大伴親王(淳和天皇)出産後2年で世を去った。死におよんで旅子が「故郷にある梛(なぎ)の木のたもとに埋めてほしい」との遺言を残したところから、再び故郷に帰ってきたとして神社の名がついたという。以来、無事帰還を願う社として人々の参拝するところとなった。




天智天皇6年(667)大津京遷都の際、随行してきた平群飛鳥真人(へぐりのあすかのまひと)が当地を賜り、天大吉備諸進命(あめのおおきびのもろすみのみこと)を勧請し祠ったのが始まり。後、後裔により、七柱の神が加えられ、八柱としたのが神社の名の起こり。

融神社



当時嵯峨天皇第12皇子であった源融公の荘園であった社地に、源融(822~895)が閑居を設け、そこに鏡一面を埋めた。その後945年に伊香立の荘官が鏡を掘り出し神爾とし、源融を祭神として祀った。相殿としてその母大原金子を祀っている。祭礼は4月29日と9月1日。

新知恩院




応仁元年(1467年)に始まる応仁・文明の乱により、京都東山の浄土宗総本山知恩院は炎上するが、その時法然上人の御影をはじめ多くの寺宝が上在地の金蓮寺に移された。その後堂宇を山号にして大谷山華頂寺新知恩院と名付けた。今も重要文化財の阿弥陀25菩薩来迎図や六道絵等多くの財宝が残されている。

伊香立 香の里資料館

自然に囲まれた伊香立の見どころやお食事、宿泊をご紹介。
心安らぐ時間を伊香立で過ごしてみませんか?

途中

還来神社(もどろきじんじゃ)
勝華寺(しょうけいじ)

天台宗のお寺。相応和尚により建立。貞観元年(859年)より行われている延暦寺修行僧の回峰行「夏安居」の行場。毎年、7月16日。
石造水船(いしづくりみずふね)

勝華寺のお堂の傍にあって、行者が供華を浸けておいたと言われる。 弘長2年(1262年)の記念銘がある。
さかさ地蔵

昔、石仏が上流の権現谷の方から流れてきて、和邇川の中程に逆さになっていたのを引き上げて祀ったことからこの名がついたと言われている。
笈懸岩跡(おいかけいわあと)

勝華寺のすぐ南の農道にある。かつて、相応和尚が葛川の三の滝中で不動明王の姿を拝し、滝中で得た霊木を背負って比叡山の無動寺に帰る途中この岩で休んだと伝えられていた。笈とは、行脚の僧などが仏具などを入れて背負う箱のことで、相応が背の霊木をおろして休んだというので「笈懸岩」と名付けられたのだろう。
臥雲寺(がうんじ)

禅宗本山妙心寺派のお寺。元禄2年(1689年)宗真和尚により開祖。 本尊は、観世音菩薩。
明星寺(みょうじょうじ)

臨済宗大徳寺派の寺院。開基は、桂山寳公(1488年没)室町末期、応仁の乱の頃活躍。山門は鐘楼門と言い、鐘つき堂を兼ねた珍しいものです。
小父母山城跡(こいもやまじょうあと)
伊香立クリーンセンターの入口付近にあるNTTの中継所付近一帯にあたる。この城跡は、下司中原包高(なかはらかねたか)の居城の跡で、還来神社の末社下司殿に包高の霊が祀られている。
大神宮(だいしょうぐんじんじゃ)

途中には「大神宮」という小さな祠がある。毎年 7月23日には「元」と言って十人衆が行事を行う。樒2、3枚のせた皿を48組つくり、 600巻の経本の虫干しをしたりする。「大神宮」とは、還来神社から見ての鬼門の神とも言い伝えられている。
金毘羅(こんぴら)

金毘羅は、海とか水の神様なのに何故途中の山にあるのか、疑問が残る。
氷室跡(ひむろあと)
山中の冷暗所に穴を掘り、冬に取った氷を茅や草で覆い保存した所で、夏に天皇への供御として献上された。氷室が当地に作られたのは、平安時代前期の頃と伝えられているが定かでない。

上龍華

福壽寺(ふくじゅうじ)

臨済宗 大徳寺派の寺院。 開山は、雪庵宗圭(1675年没)。徳川家光の頃活躍された方です。50段の石段を登った、遠く琵琶湖を望むこの地に寺を開かれました。琵琶湖上の船の安全を願って、金毘羅さんが祀ってある。
清泉寺(せいせんじ)

臨済宗(本山:大徳寺)のお寺。1300年前に開祖。 「心字の池」があり、傍に八大龍王、白長龍王を祀る鎮守がある。龍王を守るお稲荷さんの祠もある。

下龍華

長福寺(ちょうふくじ)

開山は華厳曹海禅師である。兵庫県・西光院を開創、福井県・永建寺、京都府・神応寺、その他等の住職で、当々時の(華厳)曹海派下の修行道場として名を馳せていた。 創立は宝暦2年。本尊は観世音菩薩。
下生庵(げしょうあん)

臨済宗大徳寺派の寺院。開山は、悦渓宗吾(1525年没) 戦国時代に活躍された方です。庭には小さな滝が流れ、趣のある禅庭があります。
火伏稲荷(ひぶせいなり)

その昔この村に火事が頻繁に起こったため、火を鎮める神を祀ったお稲荷さん。

龍華

龍華寺(りゅうげじ)
1799年、真宗大谷派(東本願寺)の説教場として発足。 昭和27年に正規の僧侶を迎え、以後新築され、平成5年に落慶法要が営まれ、竜仙山龍華寺と称する。
八幡神社(はちまんじんじゃ)

祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)。 文化12年(1815年)に建立された。江戸時代寛政4年、龍華村代官榎氏により石清水八幡宮の御分霊を祭祀されるが、台風等の被害にあい御神鏡を紛失。昭和47年4月、宮総代朝田宇三郎氏等により親分霊を賜り、親社石清水八幡宮の分神鎮守社となる。
勘右衛門地蔵(かんよもんじぞう)

勘右衛門は、1785年頃、下龍華庄屋小門勘左衛門の要請により当地に来る。開拓農民として子供共々荒涼な土地の開田に励み、龍華の始祖となる。その偉業を偲び供養として昭和61年8月、多数の寄進により建立される。

南庄

正傳院(しょうでんいん)

1592年天台宗の寺として創建。1853年浄土宗となる。江戸時代末期に焼失。1865年29世能誉上人の時、現在の堂宇を現在地に再建。1951年宗教法人法公布に当たり、知恩院末寺として現在に至る。
光明寺(こうみょうじ)

1265年、開山無学和尚の創立にして、当時は臨済宗に属したというが、由緒の詳細は不明。星露数百年荒廃に及ぶ。1588年、京都市寺町乗願寺一代、幻誉信窮和尚が再興し浄土宗に属する。本尊阿弥陀如来は1663年作。御丈3尺1寸5分(作者不明)
歓喜院(かんきいん)・奥の院〔旭瀧〕(あさひだき)

貞観5年(863年)相応和尚により開かれる。2月3日の節分会、7月15日の白瀧祭、9月1日の八朔護摩法要が有名。奥の院の不動明王は、33年に一度開帳。ここから眺める琵琶湖の眺望は素晴らしく、春は桜、夏は冷涼、秋は紅葉等々絶景の地である。
融神社(とおるじんじゃ)

当時嵯峨天皇第12皇子であった源融公の荘園であった社地に、源融(822~895)が閑居を設け、そこに鏡一面を埋めた。その後945年に伊香立の荘官が鏡を掘り出し神爾とし、源融を祭神として祀った。相殿としてその母大原金子を祀っている。祭礼は4月29日と9月1日。
高倉大神(たかくらだいじん)
通称タカツカ大神と呼ばれている。
伏龍祠跡碑(ふくりゅうしあとひ)

約200年前の文化元年に、龍家の先祖によって約40万年前の東洋象の化石が発見された所。現在、化石は東京の国立博物館に保存されている。平成6年3月にレプリカが完成し、香の里史料館に展示されている。
鳥類の足跡化石
平成9年10月、ほ場整備地域内で約50万年前の古琵琶湖層の地層から鳥(ツルの仲間)の足跡の化石が発見された。足跡化石のレプリカは琵琶湖博物館に展示されている。
融神社御旅所

御旅所の碑があり、融神社の4月29日の春祭りに行われる神輿渡御の休憩所となっている。

向在地

八所神社御旅所

御旅所の碑があり、八所神社の5月5日の治祭りに行われる神輿渡御の休憩所となっている。
早尾神社(はやおじんじゃ)

坂本の日吉大社の早尾社を勧請し、鎮守とするが、現在は八所神社に祀っている。
朝市

毎週日曜、AM6:00から販売。品切れまで。

生津

昌峰院(しょうぼういん)

本院は大永6年室町時代の創立にして、般運大法師を開山とし、山号を長栄山と称する。本尊は阿弥陀如来である。安政元年から明治19年にかけて「大維新に際し堂宇の大改築を成就す」と記載あり、当山再建の大工棟梁は南庄の菅原藤兵衛である。当院の特記する年中法要として、明治38年12月から、毎年師走を控え、仏名会を厳修し懺悔の法要を勤めている。
若宮神社(わかみやじんじゃ)

元亀2年(1571年)比叡山の焼き討ちで焼亡した日吉大社の再建を祈願して、社家祝部行丸(はふりべゆきまる)の手により天正5年(1577年)八所神社と共に法華経と般若心経一千巻の読誦が行われた。
生津城跡(なまづじょうあと)

「近江輿地志略」によれば「城山」と記されており、林宗林坊(詳細不明)という者の居城跡として紹介されている。 城跡の位置は、現在伊香立小学校のたつ台地の両方に伊屋が谷の字名が残り、その中に地元で「城山」と通称されている小丘がある。 城山全体がうっそうとした竹藪となっており、城山の北方には堅田から伊香立を抜け京都市左京区の古知平町に達する伊香立越の旧道が通っている。
基本電子基準点〔GPS観測局〕

地上約2万㎞の高さを周回するGPS衛星が発信する電波を受信し、この地点の位置を観測するための施設。国土地理院により設置されたもので、地震予知、火山噴火予知のための広域地殻変動等監視及び各種測量の基準とするために、全国に約120㎞間隔(観測強化地域の東海・南関東は約15㎞間隔)で設置されている。
梅の香通り

景観形成に取り組むまちづくりの一環として平成8年、北川の堤防沿いに紅白の梅の木を植樹。みんなの親しめる通りにしようと、愛称名を募り「梅の香通り」と名付けられた。秋には町内あげて育てたコスモスの花が咲き乱れ、通る人たちの心を和ませてくれる。春には梅の香り、秋にはコスモスの彩りが楽しめる。

上在地

金蓮寺〔こんれんじ〕

もともと天台宗として開寺。応仁元年に始まる応仁の乱により浄土宗総本山知恩院は炎上するが、多くの寺宝は当寺に移される。これより浄土宗の寺となり開山は総本山知恩院第22世棟蓮社周誉上人珠琳大和尚である。また中興開山として長誉上人宗林和尚が記載されるも大永元年6月寂滅する。山号は玉陽山と称する。
カンジャの木〔欅:けやき〕

庚申塚があり上在地の道標として知られている。

北在地

慈眼寺(じげんじ)(高観音)

宮倉山の中腹にあり「高観音」と呼ばれ遠く琵琶湖を望む高台の御堂には、伊香立では最古の仏像で平安時代伝教大師の作と言い伝えられる聖観音立像(国宝重要文化財)が安置されている。この像は、もと比叡山飯室谷の不動堂に安置されていたものを夢の御告げで現在の地に移され、当時、疫病で困っていた人々を救済されたと伝えられている。また、「七十二段の参道」(石段)を登れば何事も願がかなうと言われている。
二・二・六事件烈士の碑

慈眼寺の中にあって、昭和18年、西村月江和尚の建立による。

下在地

新知恩院(しんちおいん)

応仁元年(1467年)に始まる応仁・文明の乱により、京都東山の浄土宗総本山知恩院は炎上するが、その時法然上人の御影をはじめ多くの寺宝が上在地の金蓮寺に移された。その後堂宇を山号にして大谷山華頂寺新知恩院と名付けた。今も重要文化財の阿弥陀25菩薩来迎図や六道絵等多くの財宝が残されている。
法然上人像(ほうねんしょうにんぞう)

新知恩院の本尊は法然上人が自らの姿を鏡に写して彫った「鏡の御影」と言われる準国宝の木像である。令和2年から修補され、令和3年1月25日に遷座されました。
八所神社(はっしょじんじゃ)▲イチイガシ

創建は天智天皇の大津京遷都の頃。祖神は天大吉備諸進命(あめのおおきびのもろすみのみこと)。その後、七柱の神を追祀され「八所神社」と名付けされた。1577年、日吉大社の二柱の分霊が主祭神として祀られる。イチイガシ初め森は風致保護林。
自治功労者碑

八所神社の境内にあって、昭和32年10月、伊香立学区における自治功労者の碑として建立された。
殉国碑

八所神社の境内にあって、戦没者の慰霊碑として当初忠魂碑が建てられたが昭和27年4月「殉国の碑」と改称し再建された。令和2年9月27日伊香立学区遺族会による戦没者慰霊名板碑が設置されました。
環境交流館
休館日 月曜日、祝日、年末年始 お問い合わせは(TEL)077-598-2000
伊香立公園

豊かな自然の中で多彩なスポーツに親しむ。自然の風が心地よい、みんなの伊香立公園。 お問い合わせは(TEL)077-598-2262
伊香立中学校
  伊香立水族館 伊香立中学校アクアリウム部により、校内に開設。古代魚など25種300匹余を水槽で展示。 お問い合わせは(TEL)077-598-2016
香の里史料館

伊香立の失われつつある農村の暮らしぶりを後世に残したいとの思いから、昔ながらの茅葺き農家の家と生活様式を再現。農機具、林業用品等の展示、学校をイメージした多目的研修室もある史料館。平成16年3月開館。 お問い合わせは (TEL・FAX)077-598-2005 滋賀県大津市伊香立下在地町1223-1(湖西道路 真野ICより車で約7分) ●開館時間/午前9時~午後4時 ●休 館 日/月・火・祝日・年末年始 ●入 館 料/無料